「『人のため』は、突き詰めると『自分のため』。僕がエゴを大切にする理由」

あなたの行動の「源泉」はどこ?

みなさんは何かをするとき、「自分のため」にやりますか?それとも「誰かのため」にやりますか?

僕のモットーは「楽しいを優先して生きる!」。 自分が楽しいと感じることを選んで生きていきたい。これは100%、自分のための選択です。

でも、仕事である理学療法士として患者さんと向き合うときは、「その人のために何ができるか」を常に考えます。 「自分のため」と「人のため」。 一見バラバラに見えるこの二つですが、僕は自分の軸をあえて「自分のため」に置くようにしています。

違和感の正体:見返りのない「善意」はあるのか

正直に言うと、僕は「誰かのためにやってあげているんだ!」という言葉に、少しだけ違和感を感じてしまうことがあります。

例えば、僕が患者さんのために必死に知識を蓄え、技術を磨くのはなぜか。 それは、患者さんが良くならないと僕自身が嫌だからです。 誰かに優しくするのは、優しくしなかった時に自分の中に残るモヤモヤが嫌だから。

そこには「感謝」という報酬や、自分自身の「充実感」「経験値」といった、目には見えないけれど確実な「自分のための見返り」が存在しています。 もし、その行動の結果が1ミリも自分のためにならないとしたら、僕は動けないかもしれません。でも、それでいいと思うんです。

「人のため」が持つ、隠れた強制力

「人のため」をベースにしすぎると、僕の中に少し嫌な感情が生まれてくることがあります。

病院勤務時代、担当の患者さんのために一生懸命勉強して、アプローチを考え抜く。 そのとき、「この人のためにやっているんだ」という思いが強くなりすぎると、無意識のうちに**「僕はこれだけやっているんだから、あなたも良くなってよ」**という、無言の圧力を相手に強いてしまう感覚になるんです。

それは、相手の人生や治るスピードを僕がコントロールしようとする「おこがましさ」に近いかもしれません。

結び:周りが楽しいと、僕も楽しい

僕が「自分のため」に軸を置くのは、相手を尊重したいからでもあります。

「僕がやりたいから、やっている」 そう思っていれば、結果がどうあれ自分の責任。相手に何かを強いることもありません。

僕が楽しく生きるためには、僕の周りにいる人たちにも楽しくいてほしい。 だから、困っている人がいれば助けたいし、患者さんには良くなってほしい。

結局、周りの笑顔は僕の「楽しい」に直結しているんです。 これからも僕は、僕自身の「楽しい」のために、目の前の人のために全力を尽くしていきます。

「誰かのために行動する」それ自体が「自分のため」なんです。

~番外編~

誰かに言われた「人のために」の違和感

最近、YouTubeのビジネスチャンネルなどで、成功している社長さんが「人のために何かをしなさい」「社会に貢献しなさい」と説いているのをよく目にします。

もちろん、それは紛れもない事実だと思います。大きな成功を収めている方たちは、人のために動き、価値を提供し続けた結果として、今の立場があるのでしょう。

でも……誰かに「人のためにやりなさい」と言われて、「よし、人のために動こう!」と切り替えるのって、どこか違和感がありませんか? そこに「自分」はいるのかな?って思ってしまうんです。

「形」から入ることの危うさ

まだ何も積み重ねていない、あるいは自分の足元を固めている途中の段階で、いきなり「人のために」を最優先の入り口にしてしまうのは、少し危うい気がしています。

自分自身が満たされていない、あるいは自分の「やりたい」というエネルギーが不在のまま、「人のために」という形だけを追い求めてしまうと、どこかで無理が生じます。それは優しさではなく、ただの自己犠牲になってしまうかもしれない。

社会的に成功しているわけでもない僕が、偉そうに誰かにアドバイスできる立場ではありませんが……。

結び:まずは「自分」の半径5メートルから

僕は、まずは自分が「楽しい」と感じ、自分が「納得」して動く。そのエネルギーが溢れた結果として、隣にいる誰かが喜んでくれたら最高だな、と思っています。

「人のために」という立派な目標を掲げる前に、まずは自分の意志で、自分のために一歩を踏み出す。

細々とこのブログで呟いている僕の「長期実験」も、まずは僕自身が90歳まで楽しく生きるためのものです。でも、その姿がいつか誰かのヒントになったとしたら……それは僕にとって、最高に「自分のため」になる報酬なんだと思います。

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